マリネラという名前はマリネラの歴史で説明しているように、チリとの戦争の影響で呼ばれるようになったのですが、実は「マリネラ」という名前が生まれてから今のように定着するまでには以下のような物語があります。
「マリネラ」の名付け親
マリネラという名前には名付け親がいます。その彼の名前は
アベラルド・ガマラ(Abelardo Gamarra)というペルー人の作家・ジャーナリストで、
エル・トゥナンテ(El Tunante/ずる賢い人・やんちゃな人という意味)というペンネームで活動していました。彼は、ペルーの新聞「エル・ナショナル紙」で「ラスゴス・デ・プルマ(Rasgos de Pluma)」や「クロニカ・ロカル(Crónica local)」といった様々なコラムの執筆を担当していました。
さて、マリネラという名前の物語は、1879年2月14日、当時ペルーと同盟関係にあったボリビアの港、アントファガスタ(Antofagasta)をチリ軍が占領した日に始まります。
このチリによる行動は、ペルーに対し深い拒絶反応を引き起こしました。それはエル・トゥナンテことアベラルド・ガマラさんも例外では無かったようです。その日の新聞には、チリに対する怒りに満ちた詩が、彼のコラムに掲載されました。
一部抜粋すると
”ひどく不信心なチリよりも前に
私たちを導いてください
私たちのために祈ってください
聖マリア 神の聖母よ
今日のチリはひどく図々しく
サメのようにかなり強欲で
太陽の下で(獲物を狙う)ワニのように
私たちに噛み傷を与えたがっている”
や
”確かに(cierta)チリは愚か者(babieca)ではないということは
不確かな(incierta)ことではない
つまりそれは空いた金庫(arca abierta)の前では
正直者でも確かに(ciencia cierta)罪を犯すように(El justo peca)…”
※スペイン語部分は韻です
といった内容です。
マリネラという名前の誕生
このように、チリに対しての怒りに満ちた詩を書いたのち、彼は当時様々な名前で呼ばれていて、その中でも79年までは「チレーナ」という名前が最も一般的に呼ばれていた、後にペルーを最も代表することになる舞踊の名を「マリネラ」とするべきだとする記事を執筆しました。
それは1879年3月8日、エル・ナショナル紙のコラム「クロニカ・ロカル(Crónica local)」に掲載されました。以下その記事の翻訳です。
「もはやチレーナではない」
ペルーの音楽家や作詞家たちは、チレーナという名前で知られているこの舞踊に終止符を打つことを試みました。彼らは、わが国発祥の舞踊が外国の名前を持つのではなく、自国のものであることを望んでいるのです。
彼らは、かつてチレーナと呼ばれていたこの舞踊に洗礼を施すことを―
つまり新しい名を与えることにしました。その名とはマリネラ(水兵)です。
名前には、このような理由があります。
第一に、この名の誕生の時期は、チリ海軍によるアントファガスタ占領を記念するものになるでしょう。
そして、この名は戦闘に進軍するペルー海軍の喜びとなるでしょう。
また、その舞踊の優雅な揺れは、荒波の上に揺れる船を思い起こすことでしょう。
そしてもし、この名が実現したならば、この舞踊は曲のフーガ(最高潮)には、
まるで2つの艦隊による海戦のごとく凄まじく、また迫力に満ち、人々を魅了することでしょう。
これらすべて海軍にまつわる理由から、この新しい舞踊をチレーナではなくマリネラ(水兵)と呼ぶのです。
名前さえ変わればよいという事ではありません。それよりも、今や我がペルーの作曲家や作詞家たちはこの新しい音楽が、新しい舞踊が、ペルーの街中に飛び回り溢れんとするために大忙しなのです。それは、かつてチレーナと呼ばれたものがそうであったように、そして、そのかつての名を永遠の眠りにつかせんとするために。
さて、才能豊かな国民的詩人であるホセ・アルバラード氏が、多く人から評価されているその味付けで、音楽をその上に置くための作詩に従事していることを私たちは知っています。
最後のコーラスが、ハ・ヘ・ヒ・ホ・フであるその曲は、スペインとの係争の頃を記念し作曲されたもので、5月2日の戦闘(※カヤオの戦い)について語っています。
マリネラというのは、あくまで総括的な名称で、まだよく一般的に知られているというわけではありませんが。彼はマリネラを最初に作曲した人物のうちの一人ではなかったというのは、私には不可能に思えます。
クリオージョ音楽(ペルー音楽)を愛する人々は皆祝っています。……【後略】
この記事の最後には、マリネラという名称としては一番最初に発表された曲となる、ガマラ氏作詞の歌詞が続きます。 ――その話はまた別の機会に詳しく紹介しますね!
という事で、この記事が書かれた
1879年3月8日がマリネラの誕生日となるわけです!
さて、こうしてチリとの戦争目前に「踊りの名前マリネラに統一しようぜ!」と提案したエル・トゥナンテことガマラさんですが、この記事がきっかけとなり、マリネラという名前は当時、チリに対する戦勝への自信にあふれたリマ住民の雰囲気の中で広がっていきました。その後も同じような論調の記事や詩が新聞に掲載され続けられました。
こうして関係が悪化していったペルーとチリは、その年の4月5日にとうとうチリがペルーに対して正式に宣戦を布告し、開戦することになります。こうして始まった戦争は、ペルーとチリが太平洋沿岸の国だったので太平洋戦争や、もしくは硝石地帯をめぐって争ったため硝石戦争とも呼ばれます。
「マリネラ」という名称の広がり
そして、1879年に始まったこの戦争は、陸軍中心だったペルー軍に対して、イギリスの指導で海軍を整えていたチリ軍が優勢に戦いを進め、1883年10月20日にペルーはチリに対して降伏するという形で講和します。ペルーと同盟国であったボリビアはその後も戦闘を続けていましたが、最終的には1884年にボリビアも降伏し、結果はペルー・ボリビア連合の敗戦となりました。
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ミゲル・グラウ提督
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また、戦中の1879年10月8日にはアンガモスの海戦にてペルーの英雄
ミゲル・グラウ提督が戦死してしまうという出来事もありました。
※ちなみにこの戦争の結果、ペルーと同盟国だったボリビアは
沿岸の領土をチリに奪われ、内陸国となってしまうんですね。
さて、終戦前の1883年1月にはとうとう首都のリマを占領されてしまっていたペルーですが、その頃には「マリネラ」という名称がある程度広がっていたようです。
それは1883年1月20日、リマを占領中のチリ人が発行していた新聞の一つである「ディアリオ・オフィシャル(Diario Oficial)」紙でこのようなお知らせが掲載されていることから分かります。
"Teatro Principal función organizada por el célebre tenor cómico señor Serrano,
a beneficio de la familia Mellet que perdió todo en un incendio.
PROGRAMA
・ ¡EL RELÁMPAGO!
・ ¡Canción cómica!
・ CASTILLOS EN EL AIRE
・ LA MARINERA
(Concluirá el espectáculo con la aplaudida MARINERA
bailada por el gracioso profesor PAUL)"
翻訳すると
"中央劇場にて、テノール俳優として名高いセラーノ氏主宰の公演が
火事によって全てを失ったメジェット家への慈善興業として行われます。
【演目】
稲妻ショー/喜劇唱歌/空中タワー/ラ・マリネラ
(最後はパウル講師による魅力的で素晴らしいマリネラダンスで終了となります)"
はっきりマリネラと書いていますね。
また、ロドリゴ・チョカノ氏が彼の著作「¿Habrá jarana en el cielo?」の中で、カルロス・ベガ氏著作の「La Zamacueca」から以下の文を引用しています。
“Para el 9 de agosto de 1883 se anuncia [en El Comercio de Lima] que la pareja de baile Ortega-Iglesias ejecutará en el Salón del Comercio el "baile de la Marinera, muy apreciada»... y dos días antes se promete "el aplaudido baile 'la Cueca' por la pareja José Ortiz y la Srta. Iglesias". Muy interesante resulta observar que, en la crónica del día siguiente, el diario comenta la ejecución de la tal Cueca pero dándole el nombre de Marinera: "La pareja de baile Ortega estuvo como siempre muy bien y dejó contentos a todos los aficionados y a los que no lo son a la popular marinera."
翻訳
”1883年8月9日には「エル・コメルシオ・デ・リマ」紙に「エル・コメルシオ社ホールにて、オルテガ氏とイグレシアス氏のペアによる、評価の高い【マリネラダンス】が披露されます。」というお知らせが載っていた。…しかし、その2日前には「ホセ・オルティス氏とイグレシアス嬢による素晴らしいダンス[ラ・クエカ]」と予告されていました。
また、後日の新聞の時評欄では、「そのペアダンスでは、オルテガ氏はいつものように素晴らしく、その彼の踊りはファンだけでなく、まだそのマリネラという踊りをあまりよく知らない人たちをも満足させました。」と評されており、これは先述の「クエカ」と予告されていた演技について論評しているが、論評時に「マリネラ」という名を与えていることは非常に興味深い結果である。”
面白いですね!つまり、1883年8月7日の新聞には「ラ・クエカのショーがあるよ!」と掲載されているのに、その2日後の9日には「マリネラダンスのショーがあるよ!」と、同じショーなのに名前をわざわざ変えて伝えているんですね。しかも後日には「マリネラのショーめっちゃ良かったよ!」と論評しているんですから、この2日間の間の新聞社内で、なぜか名称を「マリネラに統一しよう」という事になったみたいですね。
とにかく、こうした事実から1883年頃には徐々にマリネラという名称が使われ始めていることが分かりますね!
しかし、作家のイスマエル・ポルタル(Ismael Portal)によって1912年に発表された、当時のリマの様子を知ることが出来る著作「Lima ayer y hoy」において、「人々は、サマクエカとレスバロサを踊りにロス・アマンカエス通りに出かけた。」という記述がみられ、マリネラという名称の引用が全く無いんですよね。作品が書かれた当時、まだマリネラという名称は使われていたにしても、まだ一般的でなかったのか、まだ現在のような名称の定着には至っていなかったみたいです。
つまり、戦後しばらくは、当時の著作などに見られるようにマリネラという名称はまだ一般的ではなく、人々はそれを再びチレーナという名称は使われないにしても、一般的にはまだ「サマクエカ」または「クエカ」と呼んでいたようですね。
ただ、時間がたつにつれて「マリネラ」という名称が少しずつ使われるようになって現在のように定着していったのでしょう。
さて、名付け親のガマラさんは「マリネラ」と名付ける記事を書いた20年後の1899年に発表した著書、「Rasgos de Pluma」にて、「私が、”かつてチレーナと呼ばれていたもののリズムと歌詞を持つ踊り”をマリネラという名前に変えることを提唱した作家だよ」と、ちゃっかりと主張してます。
”El baile popular de nuestro tiempo se conoce con diferentes nombres: se llama tondero, moza mala, resbalosa, baile de tierra, zajuriana y hasta el año 79 era más generalizado llamarlo chilena: fuimos nosotros los que, una vez declarada la guerra entre el Perú y Chile, creímos impropio mantener en boca del pueblo y en sus momentos de expansión semejante título y sin acuerdo de ningún concejo de Ministros, y después de meditar en el presente título, resolvimos sustituir el nombre de chilena por el de marinera; tanto por que en aquél entonces la marinera peruana llamaba la atención del mundo entero y el pueblo se hallaba vivamente preocupado por las heroicidades del “Huáscar”; cuanto por que el balance, movimiento de popa, etc., etc., de una nave gallarda dice mucho con el contoneo y lisura de quien sabe bailar, como se debe, el baile nacional” (Gamarra, Abelardo (Rasgos de Pluma),1899:25-27)
以下翻訳
「私たちの時代の人気なダンスは、トンデロやモサ・マラ、レスバロサ、バイレ・デ・ティエラ、サフリアナといった異なる名前で呼ばれており、そしてその中でも79年まではチレーナという名前が最も一般的でした。
我々とチリはかつて戦争をしたのにも関わらず、そのような名称が、いかなる政府議会の同意や決議などなく、人々の口と生活に広まっていくことをそのままにしておくのは不適切であると思ったのです。そのため我々は、今呼ばれている名称について深く考えた後、チレーナという名称をマリネラに置き換えることにしようと決意したのです。
当時、ペルーの海軍は世界中の注目を集めており、人々は英雄的な「ワスカル」(注:ペルー海軍の装甲艦)を非常に心配していました。その堂々たる船は、その揺れや船尾の動きなどで、舞踊家の動き方と滑らかさを多く語るのです。そのため、これは国民舞踊であるべきなのです。」
ここではガマラさん、「チリと戦争したのに”チレーナ”って呼ぶのは無いよねー。」と書いてますが、ガマラさんが「マリネラ」という名前にしようと書いた記事は、厳密にはチリとの戦争前ですので時系列をちょっと勘違いしてたみたいです。まぁ20年も経っているのでしょうがないですね。笑
しかし少なくとも、ガマラさんが「”マリネラ”って名前は俺が最初に考えたよ」というアピールをしているという事は、この当時には徐々にマリネラという名称がある程度は広がっていたことは間違いないと思われます。
まとめ
すっかり長くなってしまいましたが、まとめますと。
1879年2月14日、ペルーの同盟国だったボリビアのアントファガスタ港をチリが占領する、という事件がきっかけで、ペルーのチリに対する国民感情が悪くなり、1879年3月8日にアベラルド・ガマラ(エル・トゥナンテ)さんが「みんな”チレーナ”って呼んでるけど、ペルー発祥の踊りなのに、あんなひどい国にちなんだ名前で呼ぶの変だし、ペルー海軍にちなんでマリネラって名前で呼ぼうよ!」とする記事を書きました。
それがきっかけで、マリネラという名前が少しずつ使われるようになりました。
しかし戦後すぐには、マリネラという名前は当時の著作や新聞などで見られるように、使われてはいましたが、現在のように定着していたというわけでは無かったようです。
しかし以前まで一般的に”チレーナ”と呼ばれていたペルー生まれの素晴らしい踊りが、チリとの戦争、そしてペルーの敗戦という結果によって悪化したチリへの国民感情の中で、ガマラさんが提唱した「マリネラ」という名前が選択され、徐々に他の名前が淘汰され、20世紀中旬までに一般的に使われるようになったのではないかと思われます。
以上、マリネラという名称に関して記事にしてみました。
さて、ここまで読んでくださった方は果たしていらっしゃるのか分かりませんが。 笑
読んでいただきありがとうございます!!
では、また”マリネラの歴史あれこれ”第二弾でお会いしましょう!笑
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