マリネラ世界大会も終わり、例年通りだとほっと一息するタイミングですが、実は約2か月後の3月23日に私たちが所属する舞踊団Ritmos y Matices del Perúの単独公演が迫っていました。
入団したばかりの私たちとっては初めての舞台です!
今回の公演のタイトルは
Al Golpe Del Cajón
(カホンを叩く音に合わせて)
マリネラ世界大会も終わり、例年通りだとほっと一息するタイミングですが、実は約2か月後の3月23日に私たちが所属する舞踊団Ritmos y Matices del Perúの単独公演が迫っていました。
入団したばかりの私たちとっては初めての舞台です!
今回の公演のタイトルは
Al Golpe Del Cajón
(カホンを叩く音に合わせて)
さて、もう半年以上前のことにまりますが(汗) 昨年と同様にリマ首都圏のカヤオ憲法市ベジャビスタ区にあるPolideportivo del Callao(カジャオ総合体育館)で1月22日~28日にかけて開催された2024年マリネラ世界大会の様子をご紹介します!
私たちにとって7回目(ペルー移住してからは5回目)の世界大会への挑戦の記録です!
「ペルーは日系人が多い国だ」ということを知っている人はどのくらいいらっしゃるでしょうか?
実はペルーは南米ではブラジルに次いで2番目に日系人が多い国で、実際の数は正確には分かりませんが、少なくとも10万人、一説には90万人に上るのではないかという見積りもあるそうです。
ちなみに日系人のアルベルト・フジモリ氏が大統領になったこともあることは有名ですが、ペルーは南米諸国で一番最初に日本と国交を結んだ国でもあり、日本とペルーは実は深い関係があるんです。
そして今年は日本とペルーの外交関係樹立150周年という節目の年でもあり、秋篠宮家の佳子様がペルーを訪れたことはペルーでも大きな話題になっていました。
さて、ペルーの首都リマでは日系人の大きなコミュニティがあり、日秘文化会館やAELU(Asociación Estadio La Unión)といった日系人コミュニティの施設があります。
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Centro Cultural Peruano Japonés 日秘文化会館 ※ペルーは漢字で秘露と書きます。 |
さて8月のお話になりますが、そんなリマの日系人施設AELUのイベントでマリネラを踊って欲しいというご依頼があったので、踊りに行ってきました!
実は日系ペルー人3世で沖縄を拠点にディアマンテスというグループのボーカルとして活動している歌手のアルベルト城間さんのコンサートでマリネラを踊って欲しいというご依頼でした。
アルベルト城間さんは、沖縄やペルーの日系人コミュニティでは知らない人はいないほど有名で、実はモニカの父でもあります。
そんなモニカの父、アルベルトさんがAELUでコンサートを開催する、ということでアルベルトさんとモニカが共同で作詞したマリネラの曲「TAKAKU TAKAKU」でマリネラを踊ることになりました。
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コンサートのポスター |
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コンサートの様子 |
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カホンをたたいているのはモニカの弟です。 |
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マリネラも気持ち良く踊らせていただきました♪ |
そしてその翌日にはモニカの叔母さんが会長を務める「SAKURA」というグループの75周年記念パーティーでも踊らせていただきました。
SAKURAとは正式名称「Club social deportivo y cultural Sakura(サクラ社会スポーツ文化クラブ)」のことで、1948年に創設された歴史ある日系人のクラブです。
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サクラ社会スポーツ文化クラブのロゴ |
そんな歴史あるサクラの設立には日系人が直面した苦難の歴史があります。
ペルーは南米諸国の中で最初に日本と国交を結んだ国ですが、さらに南米で最も早く日本人移民を受け入れた国でもあります。その歴史はブラジルへの移民よりも古く、最初の日本人移民がペルーに到着したのは1899年(明治32年)のことです。
その後日本人移民は続々とペルーに到着し、日本人移民が増えていきました。そのため日本人(日系人)コミュニティは1920年に子供への教育を目的としてリマ日本人学校、通称「リマ日校(Lima Nikko)」を開校しました。
リマ日校は、ペルーだけでなくラテンアメリカで最初の正式な日本人学校だったそうです。
しかし、そんな日系人社会に大きな苦難が訪れます。
そもそも多くが契約農民としてやってきた日系移民たちでしたが、言葉の問題、風土病、生活習慣の違い、賃金不払い等の劣悪な労働環境だったりといった理由で、都市部への移住者が増加し、都市部で商店や理髪店といった商売を始める人が増えました。
そこで、もともとのペルー人と競合したことや、日系人コミュニティが排他的だと感じられていたこと、都市部では有色人種への差別意識が高かったこと等、といった原因で1920年ごろには残念ながら日系人への排斥機運が醸成されてしまっていたようです。
そして1930年代に入り、日本とアメリカ合衆国との関係が悪化すると、アメリカと友好的だったペルー社会では日系人社会への反発が広がっていき、1940年には日系移民の商店などに対して暴動や掠奪といった事件まで起こってしまいました。(リマ排日暴動事件)
さらには第2次世界大戦が勃発したことで、ペルー政府は日本と断交します。
ペルー政府は日系人の集会の禁止と日本語新聞の発行禁止、資産の接収などを行い、リマ日校を始めとするペルー全土の日系教育機関の接収や閉鎖なども行いました。
こうして日本語教育が禁止され、リマ日校は閉鎖させられてしまうのですが、教師たちは秘密裏に子供たちへの教育を続けていたそうです。
こういった状況の中で、リマのバランコ地区の宮城家という一家が所有する農場で「SAKURA GAKUEN(さくら学園)」という教育機関が設立されました。
そして、このサクラ学園の卒業生たちの連帯を基盤に「Club social deportivo y cultural Sakura(サクラ社会スポーツ文化クラブ)」は創設されました。
ペルーの日系人たちは過去に様々な理由で祖国を離れ、遠い南米の地までやってきて、そこからも経済的、政治的、文化的な原因に基づく大きな困難を経験し、それを多大な努力によって乗り越えて、現在のペルー社会における地位を築いています。
現在のペルーではNIKKEI(ニッケイ)という言葉も市民権を得られており、日本料理とペルー料理のフュージョン料理であるニッケイ料理というジャンルも確立しています。
多くの日系人が俳優や政治家、アーティスト、シェフ、ビジネスマンとしてペルー社会で活躍しています。
こうした日系人の存在を、多くの日本人に知って欲しいなぁと心から思っています。
とまぁ書いていたら脱線してしまいましたが、とにかく
そんな日系社会の中でも歴史あるクラブの75周年パーティーでマリネラを踊る機会を頂けてとても光栄でした!!
AELU、SAKURAの皆さんと、関わってくださったすべての皆さん
ありがとうございました!
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2024年の年明けはペルーらしく祝いました!
ペルーでは、新年を黄色アイテムで祝うのが伝統で、年末には多くの露店が出て黄色い新年アイテムを売っていました。
私たちが旅行していた時期はペルー独立記念日を挟んでいたので、せっかくならクスコで過ごそう!と、クスコに5日間滞在することに。
宿泊先はAirbnbで見つけた2LDKの家で、ペルーの家に慣れてる私達には十分満足でした。おかげで宿代はかなり安く抑えれました!
オーナーさんもとても良い人だったので一安心。
大人数で滞在するならAirbnbめっちゃお勧めです!自炊も洗濯もできるので、滞在費用をかなり抑えられます。
前日の2日目は一番の難所である4200mの峠を越えましたが、3日目は一番長距離のトレッキングです。
しかもこの日も4000mの峠越えがあります。
しかしこの3日目は遺跡がたくさんあり、一番見どころたくさんのルート!
朝6時過ぎにキャンプ地を出発!