私たちが所属するペルー民族舞踊団「Ritmos y Matices del Perú」(通称マティセス)は今年の10月10日に設立から12周年を迎えました。
そして、10月18日にその記念公演「Fe Y Devoción(信仰と献身)」を開催しました👏
今回の公演は「Fe Y Devoción(信仰と献身)」というタイトルのとおり、ペルー各地の舞踊とその舞踊と深く結びついているカトリックの信仰をテーマにしています。
私たちが所属するペルー民族舞踊団「Ritmos y Matices del Perú」(通称マティセス)は今年の10月10日に設立から12周年を迎えました。
そして、10月18日にその記念公演「Fe Y Devoción(信仰と献身)」を開催しました👏
今回の公演は「Fe Y Devoción(信仰と献身)」というタイトルのとおり、ペルー各地の舞踊とその舞踊と深く結びついているカトリックの信仰をテーマにしています。
以前の記事【2025年 日本でのマリネラコンクール予定】
でもご紹介しましたが、今年は3つのマリネラコンクールが日本で開催が予定されていました。
そして、8月31日の千葉県柏市で開催されたマリネラアカデミー「ソル・イ・ルナ」主催のコンクールと、9月21日の世界大会予選コンクール大阪大会(in群馬)は無事に開催されました!
そして2025年を締めくくる今年最後の日本国内でのマリネラコンクールは
11月2日のセレクティーボ(世界大会予選コンクール)名古屋大会!!
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| マリネラ世界大会主催団体Club Libertad 名古屋支部ロゴ |
会場は愛知県江南市の江南市民文化会館です!
最近はめっきり舞踊団での活動がメインで、マリネラよりも他のペルー舞踊を踊っている時間が多くなっている私達ですが(笑)
8月に近所でセレクティーボ(世界大会の予選コンクール)が毎週連続で開催されるということで、久々に本腰を入れてコンクールに参加しました!!
まずは8月17日に開催されたセレクティーボ・ポルベニール
ポルベニールはトルヒーヨの地区の名前で、革靴の生産が有名です。
ただ、なぜか近年トルヒーヨ郡内のセレクティーボはいつもトルヒーヨ近くのMocheという街での開催となっていて、ポルベニール地区での開催というわけではありません。笑
来週6月29日日曜日に群馬県太田市にて、ペルーの伝統文化を紹介するイベント
この素敵なイベントを主催されるのは、昨年私たちが帰国した際に大変お世話になった
「グルーポ・カゾク(Grupo Kazoku)」さん。
多種多様な伝統舞踊の宝庫である国、ペルー。
私たちは2023年からペルー民族舞踊団【Ritmos y Matices del Perú】のダンサーとしてマリネラ以外の様々なペルーの民族舞踊も踊っています!
せっかくペルーの色んな踊りを学んでいるんだから、ブログでも紹介しないともったいない!!
ということで、始めたペルーのダンス紹介!
4月10日木曜日の夜、私たちは所属する舞踊団(マティセス)のディレクターのウゴ、ルベンと一緒にトルヒーヨのバスターミナルに集合しました。
この日から始まったのは、ペルーの首都リマへの0泊2日の弾丸旅行で幕を開けた、夢のような怒涛の1週間でした。
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| バスターミナルで出発を待つ私達 左からウゴ、ルベンです。 |
私たちの住むトルヒーヨからリマまでは、バスで9時間~10時間ほど。
日本の夜行バスと比べるとペルーの夜行バスは快適な方なのですが、熟睡できるというわけでないので、2晩夜行バスというのは正直キツイ。
私たちとウゴは30代、ルベンに至っては40歳という私たち4人が、まるで学生時代のような若い計画でリマに向かったのは、とても素敵な出来事が待っていたからです…。
ペルーは、多様性の宝庫。人種、気候、文化、料理、音楽…すべてが地域ごとにまったく違う顔を見せるんです。そして、それらが融合してペルーという国を形作っています。
もちろん、ダンスも例外じゃありません!
ペルーには無数の伝統舞踊があり、それぞれが独自の歴史や意味を持っています。
私たちは2023年からトルヒーヨのペルー民族舞踊団Ritmos y Matices del Perúに所属して、マリネラ以外の様々なダンスも踊っています!
せっかく色んな踊りを学んでいるんだから、ブログでも紹介しないともったいない!!
ということで、今ペルー各地に根付く様々なダンスの魅力をたっぷりお届けしていこうと思うます!
そんなわけで【ペルーのダンス紹介シリーズ】紹介記念すべき第1回は
サマクエカ/Zamacuecaというダンスをご紹介します!
昨年8月末から10月初旬までの約1か月間、日本に一時帰国していました。激しい円安ドル高の影響で航空券の価格が高騰し、しばらく帰国は難しいだろうと思っていたところ、ありがたいことに奈良県青年海外協力協会(JOCA奈良)さんからご招待をいただきました。国際文化交流の一環として、奈良県の 大和郡山市立郡山中学校 の文化祭で マリネラの実演とペルーの歴史や文化の紹介 をしてほしいとのこと。思いがけない機会に恵まれ、久しぶりの日本への帰国が実現しました。
本当はもっと日本を満喫したかったのですが、所属している舞踊団の単独公演が10月12日に予定されていたため、それまでにペルーへ戻る必要がありました。限られた期間の中でも、せっかくの帰国を有意義に過ごしたいと思い、 FacebookやInstagramでマリネラレッスンの告知 をしたところ、嬉しいことに多くの方からお申し込みをいただきました!
すっかりブログを放置してしまっていましたが、実は2月2日までマリネラ世界大会に参加するべくリマに行ってました。大会も無事終了し、やっと少し落ち着いたので、その様子をご紹介します!
さて、今年度もマリネラ世界大会の季節となりましたが、今年度も開催地は私たちの住む「マリネラの首都」トルヒーヨではなく、リマ首都圏のCallao(カジャオ)市となりました。
トルヒーヨで世界大会が行われないのはこれで3年目…。3回目ということで私たちもすっかり慣れちゃいましたが、やっぱりトルヒーヨで開催されないのは本当に残念…。
まぁそんなこんなで、私たちにとって8回目(ペルー移住してからは6回目)の世界大会への挑戦の様子をご紹介します!!!
マリネラ世界大会も終わり、例年通りだとほっと一息するタイミングですが、実は約2か月後の3月23日に私たちが所属する舞踊団Ritmos y Matices del Perúの単独公演が迫っていました。
入団したばかりの私たちとっては初めての舞台です!
今回の公演のタイトルは
Al Golpe Del Cajón
(カホンを叩く音に合わせて)
さて、もう半年以上前のことにまりますが(汗) 昨年と同様にリマ首都圏のカヤオ憲法市ベジャビスタ区にあるPolideportivo del Callao(カジャオ総合体育館)で1月22日~28日にかけて開催された2024年マリネラ世界大会の様子をご紹介します!
私たちにとって7回目(ペルー移住してからは5回目)の世界大会への挑戦の記録です!
「ペルーは日系人が多い国だ」ということを知っている人はどのくらいいらっしゃるでしょうか?
実はペルーは南米ではブラジルに次いで2番目に日系人が多い国で、実際の数は正確には分かりませんが、少なくとも10万人、一説には90万人に上るのではないかという見積りもあるそうです。
ちなみに日系人のアルベルト・フジモリ氏が大統領になったこともあることは有名ですが、ペルーは南米諸国で一番最初に日本と国交を結んだ国でもあり、日本とペルーは実は深い関係があるんです。
そして今年は日本とペルーの外交関係樹立150周年という節目の年でもあり、秋篠宮家の佳子様がペルーを訪れたことはペルーでも大きな話題になっていました。
さて、ペルーの首都リマでは日系人の大きなコミュニティがあり、日秘文化会館やAELU(Asociación Estadio La Unión)といった日系人コミュニティの施設があります。
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| Centro Cultural Peruano Japonés 日秘文化会館 ※ペルーは漢字で秘露と書きます。 |
さて8月のお話になりますが、そんなリマの日系人施設AELUのイベントでマリネラを踊って欲しいというご依頼があったので、踊りに行ってきました!
実は日系ペルー人3世で沖縄を拠点にディアマンテスというグループのボーカルとして活動している歌手のアルベルト城間さんのコンサートでマリネラを踊って欲しいというご依頼でした。
アルベルト城間さんは、沖縄やペルーの日系人コミュニティでは知らない人はいないほど有名で、実はモニカの父でもあります。
そんなモニカの父、アルベルトさんがAELUでコンサートを開催する、ということでアルベルトさんとモニカが共同で作詞したマリネラの曲「TAKAKU TAKAKU」でマリネラを踊ることになりました。
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| コンサートのポスター |
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| コンサートの様子 |
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| カホンをたたいているのはモニカの弟です。 |
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| マリネラも気持ち良く踊らせていただきました♪ |
そしてその翌日にはモニカの叔母さんが会長を務める「SAKURA」というグループの75周年記念パーティーでも踊らせていただきました。
SAKURAとは正式名称「Club social deportivo y cultural Sakura(サクラ社会スポーツ文化クラブ)」のことで、1948年に創設された歴史ある日系人のクラブです。
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| サクラ社会スポーツ文化クラブのロゴ |
そんな歴史あるサクラの設立には日系人が直面した苦難の歴史があります。
ペルーは南米諸国の中で最初に日本と国交を結んだ国ですが、さらに南米で最も早く日本人移民を受け入れた国でもあります。その歴史はブラジルへの移民よりも古く、最初の日本人移民がペルーに到着したのは1899年(明治32年)のことです。
その後日本人移民は続々とペルーに到着し、日本人移民が増えていきました。そのため日本人(日系人)コミュニティは1920年に子供への教育を目的としてリマ日本人学校、通称「リマ日校(Lima Nikko)」を開校しました。
リマ日校は、ペルーだけでなくラテンアメリカで最初の正式な日本人学校だったそうです。
しかし、そんな日系人社会に大きな苦難が訪れます。
そもそも多くが契約農民としてやってきた日系移民たちでしたが、言葉の問題、風土病、生活習慣の違い、賃金不払い等の劣悪な労働環境だったりといった理由で、都市部への移住者が増加し、都市部で商店や理髪店といった商売を始める人が増えました。
そこで、もともとのペルー人と競合したことや、日系人コミュニティが排他的だと感じられていたこと、都市部では有色人種への差別意識が高かったこと等、といった原因で1920年ごろには残念ながら日系人への排斥機運が醸成されてしまっていたようです。
そして1930年代に入り、日本とアメリカ合衆国との関係が悪化すると、アメリカと友好的だったペルー社会では日系人社会への反発が広がっていき、1940年には日系移民の商店などに対して暴動や掠奪といった事件まで起こってしまいました。(リマ排日暴動事件)
さらには第2次世界大戦が勃発したことで、ペルー政府は日本と断交します。
ペルー政府は日系人の集会の禁止と日本語新聞の発行禁止、資産の接収などを行い、リマ日校を始めとするペルー全土の日系教育機関の接収や閉鎖なども行いました。
こうして日本語教育が禁止され、リマ日校は閉鎖させられてしまうのですが、教師たちは秘密裏に子供たちへの教育を続けていたそうです。
こういった状況の中で、リマのバランコ地区の宮城家という一家が所有する農場で「SAKURA GAKUEN(さくら学園)」という教育機関が設立されました。
そして、このサクラ学園の卒業生たちの連帯を基盤に「Club social deportivo y cultural Sakura(サクラ社会スポーツ文化クラブ)」は創設されました。
ペルーの日系人たちは過去に様々な理由で祖国を離れ、遠い南米の地までやってきて、そこからも経済的、政治的、文化的な原因に基づく大きな困難を経験し、それを多大な努力によって乗り越えて、現在のペルー社会における地位を築いています。
現在のペルーではNIKKEI(ニッケイ)という言葉も市民権を得られており、日本料理とペルー料理のフュージョン料理であるニッケイ料理というジャンルも確立しています。
多くの日系人が俳優や政治家、アーティスト、シェフ、ビジネスマンとしてペルー社会で活躍しています。
こうした日系人の存在を、多くの日本人に知って欲しいなぁと心から思っています。
とまぁ書いていたら脱線してしまいましたが、とにかく
そんな日系社会の中でも歴史あるクラブの75周年パーティーでマリネラを踊る機会を頂けてとても光栄でした!!
AELU、SAKURAの皆さんと、関わってくださったすべての皆さん
ありがとうございました!
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2024年の年明けはペルーらしく祝いました!
ペルーでは、新年を黄色アイテムで祝うのが伝統で、年末には多くの露店が出て黄色い新年アイテムを売っていました。
私たちが旅行していた時期はペルー独立記念日を挟んでいたので、せっかくならクスコで過ごそう!と、クスコに5日間滞在することに。
宿泊先はAirbnbで見つけた2LDKの家で、ペルーの家に慣れてる私達には十分満足でした。おかげで宿代はかなり安く抑えれました!
オーナーさんもとても良い人だったので一安心。
大人数で滞在するならAirbnbめっちゃお勧めです!自炊も洗濯もできるので、滞在費用をかなり抑えられます。
前日の2日目は一番の難所である4200mの峠を越えましたが、3日目は一番長距離のトレッキングです。
しかもこの日も4000mの峠越えがあります。
しかしこの3日目は遺跡がたくさんあり、一番見どころたくさんのルート!
朝6時過ぎにキャンプ地を出発!
ワンカバンバからトルヒーヨに戻った私たちは、間を置かずペルー南部の
「インカ帝国」の首都であった古都、Cusco(クスコ)に向かいました。
クスコに向かった一番の目的は、父の夢を叶えるため。それは
トルヒーヨを楽しんだ後に向かった先は、エクアドルと国境を接するピウラ県。
目的地は、ピウラ県の山岳地域に位置する街「Huancabamba/ワンカバンバ」という街です。この街は私シンジの母の故郷で、この街で両親は出会いました。